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第9話(その1) わかれ道

場面ががらりと変わり、アルファベットの文字盤が目に飛び込んできます。空港の発着を告げる電光掲示板です。ニューヨークからの到着便。サングラスをかけ、背筋をしゃんと伸ばした黒髪の女性は、まぎれもなく、国際的なピアニストであり、チュンサンの母である、カン・ミヒです。彼女は携帯を取り出しどこかに電話をかけます。

ミヒ: 私です。今、到着しました。ええ。チュンサンは元気にやっていますよね?

謎めいたこの言葉で、第8話は終わりました。

一夜が明け、ホテルのロビーにミヒが現れます。マネージャーとおぼしき長身の男が、ミヒとスケジュールを確認しています。

ミヒ: (さえぎって)そのことですけど、今日はスケジュールを空けてください。ちょっと個人的な用事があって

次の【scene9-6.春川のチュンサンの家の前(午後)】がカットされています。黒塗りの高級車が蔦の這った高い石塀に横づけされます。運転手が車のドアを開けると、ミヒが降り立ちます。

そこは、十年前、あの大晦日の日、チュンサンがミヒとともにあとにした春川の家の石塀でした。ミヒは十年ぶりにこの家を訪れたのです。懐かしさをかみしめるように、彼女は枯れた蔦の這う石塀に手を触れながら、門へと向かいます。

あの頃とまるで変わっていない。ひっそりと今は誰も住んでいない十年ぶりの家は、あるじの帰りを待っていたかのように、ミヒを迎え入れます。管理人が掃除だけはしているらしく、室内は整然として元のままです。壁には、ミヒのピアノリサイタルの写真が同じように飾られ、その隣にはアップライトのピアノが置かれています。チュンサンも弾いたピアノです。ミヒはゆっくりと近づき、そのふたを開けます。鍵盤に触れると、ピアノは昔と変わらぬ音色で応えます。

と、突然チュンサンの声が聞こえたかのようで、ミニは驚いて振り返ります。

…誰なの?ぼくの父さんは

声の聞こえた方には、かつてミヒとチュンサンが向かい合って、二人きりで食事をとっていた食卓がありました。思わず、その椅子に座るミヒ。向かい側にチュンサンが腰掛け、その言葉を口にしたのでした。

苦い想い出は、十年たったいまもミヒの胸を締め付け、息子の面影が涙に滲みました。

* *

スキー場のミニョンのオフィスでは、キム次長とミニョンが仕事の打ち合わせをしています。マルシアンの仕事は、このスキー場だけではないのです。

キム次長: ところで昨日の夜はどこに行ってたんだ?
ミニョン: え?
キム次長: え、じゃないだろ。酔ってたってわかるものはわかるんだよ。おまえが昨日の夜、チョン・ユジンさんとスキー場に戻ってきたてことは全部バレてるんだ

キム次長は、チョンアから情報を得ていたのでした。彼は冗談めかして、自分とチョンアを小説『春香伝』の”パンジャ”と”ヒャンダン”に喩えます。パンジャは主人のモンニョン(男主人公)に、ヒャンダンはチュンニャン(春香・ヒロイン)にそれぞれ仕え、二人の逢い引きに一役買う役回りだというのです。

ミニョンは「そんなんじゃありませんよ」と打ち消します。交通機関がなくなったから、迎えに行っただけだと、見え透いた嘘でごまかそうとします。キム次長はさりげなく、ケンカでもしたのかと尋ね、ミニョンが否定すると、

キム次長: 違う?おかしいな…チョン・ユジンさん、沈んだ顔してたけどな

ミニョンが途端に「どういうことですか?」と反応すると、「今日、現場でずっと浮かない顔だったんだよ。一日中、どうも憂うつそうでな」

キム次長、しっかりパンジャの役を演じています。

ミニョンの頭の中に、昨夜のことが思い出されます。

ユジンはぼろぼろでした。サンヒョクの信じられない暴力的行為が直接のきっかけではありました。思い出したくもないことでしたが、しかしユジンを悩ませているのはそればかりではありませんでした。

ミニョンはそんなユジンを気遣って、あれこれ聞かずに昨夜スキー場まで連れ帰ったのです。ユジンは、ミニョンが迎えに来てくれて安心したのかいつの間にか車中でぐっすり眠ってしまいました。詳しいことはミニョンは知りませんでした。ただユジンがとても辛い目に会ったことは、誰よりも深く理解していました。

* *

あたまを冷やす必要がありました。誰もいない夜のゲレンデ。ユジンは一人ベンチに腰を下ろし、冷たい夜風に身を任せています。心が勝手にざわめき始めます。ユジンの心は、昨夜の出来事以来、ずっと混乱したままです。仕事がなかなか手につかず、しばらくすると心は勝手に飛んでいき、波のように繰り返し押し寄せるさまざまな思いに、翻弄された一日でした。

ユジンは、ホテルから必死になって逃げました。それはサンヒョクの突然の卑劣な行為に動転し、恐怖と裏切られた悲しみを感じたからではありました。でも私は、そんなサンヒョクから逃げ出したかっただけなのだろうか…?チヨンの自分を拒絶する冷たい表情や言葉も思い出されます。サンヒョクの気持ちすら、わからないわけでもないのです。自分は何か八方ふさがりの現実から、またそうした状況を生み出している自分から逃げ出したかったのかもしれない…そんな思いも去来します。

しかし、いまユジンの心をとらえているのは、サンヒョクとの問題だけではありませんでした。何か目に見えない大きなものに鷲づかみにされている感覚…。それは…ミニョンの存在なのです。どことも知れぬ場所でタクシーを降り、どうしていいかわからずに泣き濡れていたユジンを、ミニョンが救ってくれました。ミニョンに見つめられ、引き寄せられ、抱きしめられた…。その感覚が、いまもユジンのからだを、そして心をとらえて放しません。思い出すだけで、胸が高鳴り苦しくなる…。私は、どうしちゃったんだろう…どうすればいいんだろう…?ユジンの口からは、ため息が漏れます。

ユジンを、ミニョンが見つけました。冬の夜風に吹かれるままにされるユジンの後姿を見ただけで、ミニョンには彼女の気持ちがわかります。ユジンに、フードをかぶったコート姿の男がそっと近づき、立ち止まります。顔を上げるユジン。男の目はゴーグルで覆われています。そのお茶目な姿に、ユジンの口から思わず白い歯が覗きます。ミニョンも笑いながら、フードをとります。ふたりは見つめあい、笑みを交わします。

ミニョンとユジンは肩を並べて、スキー場を黙って歩いています。風が吹いています。ユジンの襟元が寒そうで、ミニョンは自分のマフラーを取りユジンにかけてあげようとします。ユジンは、それを断ろうとしますが、ミニョンは言うことを聞いてという風に、「(笑って)じっとしてください。寒いから」と、その首に巻いてあげます。マフラーの暖かな感触が、冷え切ったユジンの首を包み、ぽっと何か明かりがついたような気持ちが広がります。

ミニョン: 生きていると、いつもわかれ道に立たされている気がします。こっちの道にいくべきなのか、それともあっちの道に行くべきなのか…決断しなければなりません

私は何も口にしていないのに、この人はわかってくれている…表情には出さないけれど、ユジンの心は正直でした。

コートに入れたユジンの左手を、ミニョンはそっと取り出し、握ります。思わず、その暖かなミニョンの手から逃れようと、その手を引くユジン。けれど、ミニョンは力を入れて、放そうとしません。ユジンがそのままにしておくと、ミニョンは両手でやさしくその手をくるみます。

ミニョン: 決めかねたら、引っ張られるほうに行くのも悪くありません。今みたいに

にっこり笑い、ミニョンはユジンの手を握って、白いゲレンデを歩き出します。ユジンは黙って、いっしょに歩いていきます。

はっきりさせるべき時が近づいていました。引っ張られるほうに…それは、自分の気持ちに素直にということでした…。

第9話(その1) わかれ道_a0019494_1146085.jpg

by ulom | 2004-08-25 11:45 | 第9話 揺れる心
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