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第8話(その10) 抱擁

”別の男”とはミニョンのことでした。なぜそんなことをチヨンが知っているのか…サンヒョクは足元がすくわれる思いがしました。いつの間にかミニョンの暗い影が、こんなところにまで伸びている…。母親の誕生日をユジンと家族で祝うという、本来ならこんな楽しいひと時はないはずなのに、最悪の一日となってしまいました。

母と言い争い、父の顔をつぶし、ユジンを無理矢理引っ張って、サンヒョクは家を飛び出してきました。車にもたれて、夜の黒い貯水池の水面に目をやりながら、サンヒョクの頭を占めるのはミニョンの存在です。ユジンがたまりかねて車を降り、早く謝りに家に帰ろうというと、サンヒョクはミニョンのことを切り出します。

…君はなんとも思ってないのに、他の人たちが誤解してるだけなのか? … じゃなかったら、君が本当にあいつを好きなのか?

ユジンは答えることができません。答えることができないということは、否定できないということでした。サンヒョクは、ユジンの沈黙が我慢なりません。否定できない…ミニョンがユジンの心の中にあることに他ならないからです。

二人を乗せた車は、ユジンの知らない道を走っています。「家には帰らないつもり?」不安に駆られて何度もユジンが問いただします。

…家には帰らない。 … 今夜は君を帰さない

* *

キム次長はたいしたつまみもなく、すでに何本もの缶ビールを一人で空けて、酔いが回っています。

…おまえの問題は、何もしゃべらないってことだよ、何も。 … 人間が生きるってのはどういうことか知ってるか?しゃべるから生きていけるんだよ…ふう…あーしんどい

こう言ったきり、キム次長は酔いつぶれ、椅子に身を沈めて眠り込んでしまいました。ミニョンの重い口が開き、呟きがもれます。僕だって言いたい…。

自分がユジンへの想いを口にすれば、ユジンのまわりに波風を立てるだけでなく、ユジン自身を苦しめてしまう結果となってしまう。それが辛いから、これからは苦しませることはしないとユジンに誓ったのです。「僕のことは気にしないで」とまで言ったのです。しかし、苦しんでいるユジンを見れば見るほど、ユジンへの愛しい想いはどんどん大きくなっていきました。

…本当に僕も全部言ってしまいたい。あの人の元に行かせたくないって。あの人の手を握っている姿なんか見たくないって。僕が…僕が本当に愛してるって

* *

ユジンを乗せたサンヒョクの車は、今ホテルの前に停まっています。

ユジン: こんなことしちゃだめよ。こんなのだめよ…

サンヒョクの意図をユジンはやっとつかみました。今までこんな行動をサンヒョクは自分に対してとったことはありませんでした。サンヒョクを何か得体の知れないものがとらえているようで、ユジンはからだを硬くしました。しかし、サンヒョクの口から出たことばは、ユジンの耳を一瞬疑わせるようなものでした。

サンヒョク: イ・ミニョンさんとは山頂のレストランで二人っきりでいたくせに、どうして僕とはだめなんだ?

サンヒョクの心にずっと引っかかっていたことでした。ユジンを信じようとする気持ちを、いつもあの日の出来事が邪魔をして、サンヒョクの心をかき乱し苦しませていました。ユジンは、そんなサンヒョクに、自分のことを信じてくれていないサンヒョクに、あの日のことをそんな風に”解釈”しているサンヒョクに、唖然としてしまいます。二人の間にぽっかりと深い溝が口を開きかけています。サンヒョクは、それが見えないかのようにユジンに「降りよう」と言いました。と、ユジンの携帯がなります。ユジンが応答しようとしますが、サンヒョクはそれを取り上げるときっぱりとした口調で告げます。

…今日は僕たち二人のことだけを考えるんだ。誰にも邪魔されたくない

* *

二人はホテルの一室で丸テーブルを挟んで向かい合っています。サンヒョクは缶ビールで口を濡らします。一体何から切り出したらいいのか…。

ユジンは、膝に置いたかばんの上で両手を握り締めたまま、眉間にしわを寄せています。サンヒョクはユジンを連れてこうしてホテルに入ったものの、決してユジンが憎くてこんなことをしているわけではありません。反対でした。膠着状態にある今の関係を、サンヒョクはどうにかしたいのです。何か別のかたちを与えれば、打開できるのではないかと気が急くのです。「君はベッドで寝ればいい。僕はソファで寝るから」「どうしてもこうしなきゃいけないの?」と聞くユジンに、サンヒョクは顔を向け、はっきりと「ああ」と言います。

サンヒョクはユジンから眼をそらさずに、じっと見つめます。ユジンはその視線に耐えられず、顔を背けます。二人の間に沈黙の時が流れていきます。いたたまれずに、バスルームへと向かうユジン。ドアを閉め、不安とためらいがユジンを襲います。

サンヒョクも気を落ち着かせようと、窓辺に近づきます。と、ユジンの携帯が再び音を立て、サンヒョクは勝手に耳に当てます。

…ユジンさん、どこですか?

その声は、…イ・ミニョン!「ユジンさん、僕です。まだソウルにいるんですか?」
サンヒョクの顔から血の気が引いていきます。しかし落ち着いた声で応えるサンヒョク。

…なんのご用でしょうか?

その声に表情を曇らせるミニョン。

ユジンがバスルームから出てきます。

サンヒョク: イ・ミニョンさんがユジンになんのご用で電話をかけてきたんですか?

こみ上げる怒りをなんとか抑え、できる限り冷静を装い、高圧的にサンヒョクは応答します。
「…ユジンさんは今、そちらにいないんですか?」「ユジンは今、僕と一緒にいます。今日はそちらに戻れません」

それが婚約者であろうと身内であろうと、個人の携帯にかけられた電話に勝手に出てよいはずはありません。ユジンが怒り、サンヒョクの手から自分の携帯を奪い取ると、サンヒョクは嫉妬に駆られて叫びます。「僕と一緒にいるのを、イ・ミニョンさんに知られるのがいやなのか?」

この人はいったい何を言っているのだろう?ユジンはサンヒョクの狂ったような眼を見て、今言い争ったところでなんの解決にもならないと判断しました。「…後で話しましょ」と、ユジンはかばんを持って部屋から出て行こうとします。

サンヒョクは焦ります。こんなことでまたユジンを帰してしまったら、何もならなくなるばかりか二人の溝はもっと深まってしまうことを彼は直感しました。いきなりユジンの顔を両手で挟むと、唇を強く押し当てました。突然のことに驚いてユジンはもがいて、離そうとしますが、サンヒョクはユジンをベッドに押し倒し、覆いかぶさります。サンヒョク、やめて、放して!悲しい叫び声をあげて、必死にユジンは抵抗します。

* *

扉が勢いよく開き、乱れた服装のままユジンがホテルの廊下を懸命に走っていきます。部屋の中では、サンヒョクがやっと我に返り、驚いた表情であとを追いかけます。ユジンは泣きながらもなんとかホテルの外へ出て、必死でタクシーに乗り込みます。

とんでもないことをしてしまった…事の重大さにようやく目覚め、サンヒョクはユジンを乗せたタクシーを追い、ユジンを大声で呼びますが、間に合いません。頭を抱え、サンヒョクはその場にくず折れます。

タクシーの車内で、ユジンは動転する気持ちを何とか落ち着かせようとしますが、涙がとめどなくあふれます。こみ上げる嗚咽を押さえようと口に当てた手は、小刻みに震えます。

* *

ミニョンは先ほどの電話のやり取りに、部屋にじっとしていることができませんでした。降雪機が噴き上げ落ちる雪の中に一人、じっとたたずんでいます。

ユジンはタクシーを降り、見知らぬ広場に座り、泣いています。携帯がなります。ミニョンさん…。

ミニョン: ユジンさん、今どこですか?そこはどこなんですか?
ユジン: よくわかりません…私にもよくわかりません

涙にぬれた、か細い声でした。迷子になって、助けを求めるか弱い声でした。自分が今どこにいて、何をどうしたらよいのか…ユジンは何も考えることができずに、わからずに座っていました。

ミニョン: そこから動かないでください。僕が行きますから。僕が捜しに行きますから。わかりましたね?

ミニョンが走ります。誰もいない夜のスキー場を、ユジンを見つけるためにミニョンはまっすぐ駆けていきます。車を飛ばします。夜のソウルをスピードを上げ、ユジンの姿を捜します。ミニョンの脳裏に、これまでのユジンの姿がさまざまによぎっていきます。

ミニョンが来てくれる、私を迎えに来てくれる…。ミニョンのやさしい言葉がよみがえります。

* *

ミニョンが車を止めます。広場を走ります。小さくうつむいて座るユジンの姿が、その先にはありました。ひとり泣き疲れて憔悴した姿に、ミニョンの胸は激しく締め付けられます。その目は自然に涙に潤み、愛おしさがこみ上げます。

ユジンはやっと人の気配に気づきました。ミニョンです。救われたかのような思いが、ユジンのからだをふっと立ち上がらせます。二人は少しはなれたところで、互いを確かめ合うようにしばらくの間、瞳と瞳を交わします。一歩一歩ゆっくりと近づくミニョン。瞬きもせずに、じっと見つめるユジン。孤独な心と心とが向かい合います。

ミニョンがユジンのからだを、つよく、強く、自分に引き寄せます。ユジンは吸い寄せられるように、ミニョンにからだを預けます。ミニョンは、やさしさを込めて、その胸にしっかりとユジンを抱きしめました。

ふたりの鼓動がひとつになりました。

<第8話 疑惑 了>

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by ulom | 2004-08-23 11:56 | 第8話 疑惑
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