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第14話(その7) 過ぎたこと

報せを受けて、ミヒが病院に駆けつけたのは事故の翌日のことでした。一昨日の夜、ミニョンから"明日アメリカに発つ"との電話をもらったのでした。だからミヒはてっきり、ミニョンはすでにアメリカに渡ったものだとばかり思っていたのです。

黒塗りの車が病院玄関脇に停まり、ミヒがあわてた様子で中に入っていきました。

* *

病室ではユジンが電話をかけています。「うん、服も少し持ってきてね、チンスク。チュンサン?きっと、目を覚ますと思うわ。だから私のことは心配しないで…うん、ありがとう」

ユジンはチュンサンにつきっきりでした。片時でも目を離したくありませんでした。チュンサンは依然目を覚ます気配はなく、ユジンはチュンサンに掛けられた毛布を直します。

とその時、ドアが開きミヒが駆け込んできます。ユジンはすぐに立ち上がります。ミヒのことは良く覚えていました。ミヒはベッドに近づくと、「ミニョン!ミニョン!うちのミニョンがどうしてこんなことに?うちのミニョンはどうしてこんなことになったんですか?」と、慌てふためきます。

ユジンは頭を下げます。「…すみません、私のせいで…」

その言葉にミヒは改めてユジンの顔を見つめました。見覚えのある顔でした。別荘に立ち寄っていた時に、ミニョンが連れてきた娘。この娘に出会ってから、ミニョンがチュンサンのことを知りたがるようになった…。

* *

診察室から出てきたミヒに、秘書が容体を尋ねます。「とりあえず意識が戻るのを待たなきゃいけないそうです…。あの、今日の日本行きはキャンセルできませんか?」「先生、それは重要な仕事なので…」と、秘書は困ったように応えます。

ミヒは仕事を優先せざるをえません。昔から変わらぬことでした。それは彼女が国際的ピアニストの道を選んだ時から、いえ、もしかするとチュンサンを産んだ時から決められていたのかもしれません。

ミヒがため息をついて廊下に出たところで、歩いてくるユジンに目が留まります。ユジンが会釈をすると、ミヒは秘書にその場を外すよう目で合図します。「チュンサンのお母さま」と、ユジンが近づき声をかけます。

ミヒは担当医からこれまでの経緯と、現状を聴きました。この娘を救おうとしてミニョンが事故に遭い、意識不明に陥ったというではないか。おまけにこの言い草…ミヒは、我慢なりませんでした。「どうしてさっきからチュンサンのお母さまなんて言うのかしら?聞きたくないって言ったはずですけど」

ミニョンはミニョンのままで居て欲しかったと願う女性が、ここにもいました。ミニョンにチュンサンのことを知られたくはなかったし、ミニョンが自分こそがチュンサンだったと知ってしまった事実を、ミヒは今でも悔やんでいました。それでもアメリカに帰ったなら、ミニョンは今まで通りのミニョンに戻ってくれるかもしれないと期待もしていました。

「すみません。私はただ…」と言葉を続けるユジンを遮るように、ミヒは続けます。「あなたがうちのミニョンにチュンサンのことを話したんですか?似てるって?そっくりだって?」

ミヒは短絡してとらえます。ユジンの「最初は話しました…チュンサンかもしれないと思って」という言葉をよく聞きもしないで、冷たく言い放ちます。「どうしてそんなに浅はかなんですか?」

その言葉にユジンは驚きます。ミヒがなぜそう言うのか分りません。ミヒはお構いなしに自分の気持ちをぶつけます。「名前も違うし、性格も違うと思ったら、別人だろうと考えてあげるのが礼儀なんじゃありませんか?うちのミニョンがチュンサンだと知って、何かいいことでもあるんですか?こんなふうに事故にあうのがせいぜいだわ」「すいません、でも…」

ミヒはもうこれ以上話すことはないと言うように、これまでの看護に対して紋切り型の礼を述べた後、「でももう帰ってください。付き添いは私が捜しますから」と、すげなく言い放ちます。

ミニョンをこのままこの娘に看病させたなら、また何が起こるとも限らないという不安も、ミヒにはありました。まるで疫病神を追い払うかのように、ミヒは秘書に指示します。「キムさん、すぐに付き添いを捜して、日本でのスケジュールをできるだけ短くしてください」

ユジンもこの対応に黙っているわけにはいきません。ユジンは、ありのまま直截にミヒに訴えます。

「そんなことはできません。私、チュンサンから…いえ、ミニョンさんから離れることはできません。今、やっと会えたんです」

一歩も後には引かないという強い気持ちがありました。チュンサンを、いえミニョンを私の手で看病したいという熱い思いがありました。ミヒは、改めてユジンという女性を見つめます。ユジンはなおも訴えます。「チュンサンとは呼びません。チュンサンを思い出させるようなことは、決して言わないつもりです」

これは、意識の戻らないチュンサンに対してというより、ミヒのために言っているといってよい言葉でした。なぜミヒがことさらチュンサンと呼ぶことを嫌がるのかは分りませんでしたが、ユジンにとって今はそんなことは二の次でした。それにかつてチンスクに言ったように、ユジンの心の中では「チュンサンとイ・ミニョンさんは同じ人」だったのです。「だから、そばにいさせてください。お願いします」

ユジンは頭を下げ懇願します。

ミヒはユジンに、真心を見ました。十年間思い続けた人…ミヒにも感じるものがありました。小さくため息をつくと、ミヒは言葉を返さずその場を離れます。秘書が付き添いの件を尋ねますが、それには応えずミヒは去って行きました。

ユジンの厳しい顔つきが、ほっと息をつきました。

* *

ユジンはチュンサンの脇にずっと付き添い続けます。

午後の陽射しが傾き、やがて沈み、ユジンは疲れて、座ったままベッドに顔をうずめます。

*

チュンサンの手を握ったままユジンが寝ています。病室の窓の外には、白いものが舞い下り始めました。その気配を感じ取ったのか、ユジンは目を覚まし、ブラインド越しに降り急ぐ雪を眺めます。

ユジンの眼差しがどこか遠くに注がれました。

*

医師と看護師がやってきて、ミニョンの酸素マスクを外していきました。けれども依然として意識の戻る気配はありません。

* *

看病用のタオルをもってユジンが歩いていると、向こうからサンヒョクが俯きがちにやってきます。互いに気づき、立ち止まります。ユジンの視線をはずし、サンヒョクは黙ったまま近づきます。思いつめた表情がそこにはありました。

サンヒョクは、仕事をしていてもユジンのこと、自分とユジンとのこれからのことが気がかりでまったく身が入りませんでした。

いつもの廊下の隅のソファに二人は腰掛けます。ユジンが缶コーヒーを一口飲みます。サンヒョクが意を決したように、顔を上げユジンに話しかけます。「チュンサンは、まだ?」

ユジンは努めて明るく応えます。「うん。でも、すぐに目を覚ますと思うわ」

確たる保証はありません。その言葉は今はまだユジンの願いでしかないことを、サンヒョクも知っていました。サンヒョクは、思いきってこれまでユジンにずっと黙ってきたことを口にします。「ユジン、僕…イ・ミニョンさんがチュンサンだったってこと、知ってたんだ。だいぶ前から」

知っていることを黙っていたこと…それもやはり、"嘘"に違いはありませんでした。ユジンに、愛するゆえにサンヒョクがつかずにはいられなかった嘘でした。

ユジンの顔も真剣なものに変わり、サンヒョクの話に耳を傾けます。「僕がチュンサンに、君と別れろっていったんだ。昔のことを覚えてないならチュンサンじゃないとも言った」

サンヒョクは、ユジンに隠してきたことを正直に話します。「だからチュンサンが、ここから離れようとしたんだ」

ユジンに話そうか話すまいかと悩んだ時点で、すでに答えは出ていました。ユジンのことを思ったなら、サンヒョクは話さないわけにはいかないのでした。それはサンヒョクにとっては懺悔ともいってよいものでした。

けれども、ユジンは淡々と受けとめ応えます。「そうだったのね。そんなことがあったのね」

それ以上のことは言わないのです。

サンヒョクは拍子抜けしたように、尋ねます。 「僕が憎くないのか?僕に腹は立たないのか?」

ユジンに責めたてられるものだとばかり思っていました。それを覚悟できたから、こうしてやって来たのです。

ユジンはそんなサンヒョクの顔を見て、笑って応えます。「ううん、どうしてそんなことを言ったのか、理解できるわ。あなた、そのことですまないと思ってここに来たのね?」

サンヒョクがユジンのことを知っているように、ユジンもまたサンヒョクのことを知っているのです。なんといっても二人は幼馴じみでした。サンヒョクが言ってくれたおかげで、これまでよく分らなかったことが分りました。そして、そうせざるを得なかったサンヒョクの気持ちも。そして、それを話に来た今のサンヒョクの気持ちも…。

「私は大丈夫。もう過ぎたことだもの」

サンヒョクは返す言葉がありません。ほっとするよりむしろ、こんなふうに受けとめてくれるユジンのやさしさに、サンヒョクの胸には、かえって切ない思いがこみ上げました。同時に、抗いがたい淋しさがサンヒョクをとらえました。

そう、ユジンには「過ぎたこと」なのでした。ユジンにとって問題は、「今」。そしてチュンサンが意識を回復してくれる「これから」なのです。

サンヒョクは、ユジンがもう自分の手の届かない所へ離れて行っているような気がして、思わず尋ねます。「もし(만약에)…もしもだけど、チュンサンが目を覚まさなかったら…」

만약에(マニャゲ)<もし>は、チュンサンが入院した日、ユジンがサンヒョクに使った言葉でした。— もし、チュンサンにもしものことがあったら、どうしたらいいの?

けれども、今のユジンは違いました。サンヒョクの言葉を強くさえぎって言います。

「そんなことないわよ。きっと、必ず目を覚ますわ。だからあなたもそう信じてね、サンヒョク」

ユジンはそう言うと、缶コーヒーを一口飲んで目を伏せました。サンヒョクは、哀しい目をしてユジンの顔をそっと見つめました。


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by ulom | 2005-02-02 23:00 | 第14話 二度目の事故
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